🕊温聲提示🕊

温又柔が、こんなことします、や、こんなこと書きました、とお知らせするためのブログ。

この2年分の書評まとめ&私の続・「宣戦布告」●~*

 先日、私の書評の担当記者さんに会った。振り返ってみれば、『「国語」から旅立って』を読んだかのじょが、この本の著者が書く書評を読みたい、新聞の読者に読ませたいと熱望してくれたからこそ、私はあの「大役」を引き受けなくてはと自分を焚きつけることができたのだ。 

記念撮影。ここに写っていない数冊も含めて、一冊いっさつから多くを学びました。

2020年5月、私は自分の”書評デビュー”として、カルメン・マリア・アチャドの『彼女の体とその断片』(エトセトラブックス)を選んだ(あの本が、あの時期に刊行されたことは私にとってとてつもなく幸運なことだった)。

 どきどきしながら仕上げた私のその書評を読んだかのじょの上司は「よく、こういう書き手を見つけてきたね」と言ったという。
 考えてみれば、あの評は私の書評委員としてのちょっとした「宣戦布告」でもあった。
 今も私は、「世界に対するみずからの解釈が、今、自分の生きているこの社会において最も支配的なナラティブと重なっている」おかげで「いつも正しそうに見える人たち」が、これ以外にはないと思い込む「正しさ」が、ほかの誰にとっても「正しい」とは限らないと思っている。
 その証に私は、彼らのあずかり知らぬ自分自身の「正しさ」を信頼している。そして、それと同時に、自分にとってのさまざまな「正しさ」が自分以外の誰かを圧するかもしれないとも常に意識していたいと思っている。私もまちがっているかもしれない。それは、意識してもしても足らないぐらいなのだから。
 この2年に書評を書くために読んだ約33冊の本から教わったことだと思っている。「好書好日」に、自分の読んで学んだ記録のアーカイブが残っていることがうれしい。
 ところで、自分が創作物を発表するたびに思うのは、世の中には、他人の作品を利用して自分は偉いと示したがる人たちが確実に一定数はいるということだ。他人の作品を大上段から評してやるための揺るぎない資格が自分にはあらかじめ備わっているとばかりな態度の、自称・評論家のような人たちが。彼らにこぞって共通するのは、みずからが論じる作品やその作成者らへの最低限のリスペクトがほとんどないところだ。それも当然なのだろう。こうした自称・評論家の類は、作品そのものを読んでいるのではなく、自分自身の存在感をアピールするために人の作品を「使う」のだから。特にインターネットに多い。面白い現象だと思う。私もデビューして数年間は文芸誌や新聞の新人月評で自分の作品が見当違いの観点でエラそうに評されているのを目にすればかなり腹が立ったものだけれど、最近では、私の作品を取り上げて底の浅い持論を言い立てることで自分は賢くて偉いと思わせたがっている素振りの人たちを見かけると、その必死さはどこからくるのだろうとかえって興味深い。だからご自由にどうぞ。私もまたあなたたちを評するので。ただし、著者である私が取り上げるほどの価値が備わる「批評」に対してのみね。要するに批評以前レベルのものは黙殺しますよってこと。